このページでは、TRIZマスターであり「新しい時代の教育」研究室長としてTRIZの考え方に基づいた教育法の開発・普及を進めているアナトーリー・ギンの文章を、本人の承諾を得て翻訳し、紹介します。
この文章は2007年に掲示されたプレゼンテーションです。教育システムが抱えている様々な矛盾を具体的に取り上げたものです。
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アナトーリー・ギン
人生の一こま:
「発達障害」児童のための幼稚園に、学校に行かず、読み方を学ぶ事をがんとして受け入れない男の子がいました。はじめは誰にも理由が判りませんでした。時がたつにつれて少しずつ判ったのは次のようなことでした。男の子は大人になりたくなかったのです。怖がる理由は牢屋に入れられると皆がおどかしたからです。男の子は小さい時にした悪い事を許してもらえないと思い、自分を守るた方法として大人にならなければ良いと気づいたのです。いつまでも子供でいさえすれば罰せられる事はない。大人にならない事、それは責任を回避する手段だったのです[注1]。
注1 引用された報告の主旨は、M.マクシーモフ『ブルーノ・ベッテルハイムについて』参照
教育とは成長させる事です。人類は未だに幼児期を過ごしています。人類は生物学的なしっぽを捨てましたが、おそれ、攻撃性、群れの中ですこしでも上位を占めようとする衝動などの心理学的なしっぽはいつまでも引きずっています。私の考えでは、人類はまだ教育を受けていない状態にあるのです。
人類は成長する事をおそれているような印象があります。このため、教育は教育システムと呼ばれる生命を失った抜け殻によって置き換えられてしまいます。この抜け殻はほぼ三百年間ものあいだ、大きく変化することも無く生きながらえてきました。しかし人類に取って唯一無二の本来の「教育」とは人類の主要な目的であるべきものなのです。
他の全てのシステムと同様に教育システムもその進歩の課程で矛盾を生み出してはそれを克服しつつ発展しています。ここでは、現代の教育システムに特徴的な最も重要な7つの矛盾について考えてみたいと思います。
今や誰の眼にも明らかになってしまった秘密ですが、生徒たちが学校[注2]で身につける知識、技能、方法は彼らの人生には余り役に立たず、成功を約束してくれるわけではありません。「教育即成功」という標語は現実の裏付けをもっていません。たとえでいうならば、学校では子供にスキーを教える、ところがその子は全く異なる技術が求められる砂漠に放り出される、という状況なのです。
注2 ここではこれ以降も含めて「学校」ということばで幼稚園から高等教育機関に至るまでの伝統的な教育システムを指すこととします。
今日の教育システムに満足している人はどこにいるでしょうか。
12歳未満の児童の20%は教科書に書かれていることの3分の1しか理解できません。30%は読書の速度が極めて遅く、理解しながら素早く読める児童は60人に1人です。
「大臣におたずねします。大臣ご自身のお子様が受けた教育に満足なさっておいででしょうか。」[注4]
「いいえ。全く不満に思っています。」
ほんの数件の証言でしかありませんが、私たちはこれが世界的な現象であると理解しています。学校は現実の生活についてゆけていないのです。
今日さしせまった問題が、明日にはどうでもよい事になるという場合もあります。教育の現実についてもこれが当てはまるでしょうか。言い方の問題です。
仮説:
文明がもつ知識の総量は指数関数的に増加している。これについては、証拠は間接的な証拠しかありえません。しかし、かなり説得力のある証拠です。
例えば、発明が時間を追って指数関数的に増加していることを示したルイス・マンフォードのよく知られたグラフ[注5]があります。現実には曲線からずれた例もありますが、それも政治的・経済的出来事や戦争といった理由によって説明可能です。
私たちは古くなってしまった教育システムを使っているのです。とはいえ、真実を言えば、古くなってしまった教育というものは存在しません。古くなった教育は教育ではありえません。したがって、古くなってしまった学校[注6]は教育を妨げるものなのです。
注5 アブラム A.モール『分化の社会的動態』、B.V.ビリューコフ、R.K.ザリーポフ、S.N.プロートニコフ訳、モスクワ、プログレス出版、1977。
注6 ここでの「学校」は高校・大学が念頭におかれています。
次の事実を正直に認める必要があります。具体的な事実を身につけることを眼目とした教育は原理的に時代遅れになってしまったのです。
ロシアの技術者の例:
1960年代に無線技術を学びました。当時ですから真空管を主体とする無線技術ですが、立派な設計者でした。ところがしばらくすると状況が大きく変化してトランジスタの時代に移ってゆきました。この人は新しい技術を学び直す機会が無かったので設計は難しくなって生産技術の仕事に移りました。あと十年で定年というころに世の中はICの時代になり、真空管時代の技術は全く役に立たず、この人の働ける場所は生産の現場だけになってしまいました。そうこうするうちに今度はLSIの時代がやってきました。
今日では技術が進化するスピードはさらに早くなっています。先進技術分野の技術者は専門知識の価値の半減期は1年半から3年と考えています。
教育システムの側ももちろんこの傾向を認識しています。それが直接反映された結果、教育にかける時間が延長され学生・生徒への負荷が増加することになりました。古い教育システムは教育の内容や体制を大きく変化させることを避けて状況を救う方策を考えだしました。早いうちに教育を分化(コースに分ける)することです。その結果として次の矛盾に直面することになりました。
この矛盾を凝縮させた形で表現すると「狭い分野の深い専門知識=広い分野における無知」[注7]ということになります。
狭い専門化を行うと様々な生産を(社会にとって)効率的行うための人員を比較的に低コスト・短期間に養成するすることが可能になります。一方で、狭い専門化は人々を無知にし(社会で指導的な立場にある人々にとっては好都合なのでしょうが)人々をあやつることを容易にしてしまいます。狭い専門化を行うと人々は心理的に自らを一定の限界に押し込んで、これは私に関わりのないことだ、誰でも人には自分の分というものがある、などと考えるようにしむけます。この矛盾を解決するには狭い範囲の専門化と幅広い基盤的教育とを組み合わせなくてはなりません。
人生の成功者とは単に仕事の上で良い専門家であるだけでなく、良い市民、良い親、良い消費者などなどでなくてはなりません。良い市民は政治権力がどのような構造になっているのか、金融システムがどうなっているのか、市民社会がどのように構成されているのかを理解することができます。良い親は子供を育てる方法やしつけ方を知っていなくてはなりません。良い消費者は自分に必要なものは何なのか、それをいつどこで買えばよいのかを知っています。しかも、これら全てを急速に変化し続ける世界の中でやってゆくわけです。仕事に関する問題、社会生活に関する問題、個人生活に関する問題、こういった問題に含まれる矛盾を解決するためには、体系的で、特定の分野の枠を越えたアプローチや一見遠く離れた因果関係を見抜く能力が益々多く求められるようになるのです。
現在は大学の教育も、学校の教育もこうした要請を満足させることができていません。大規模な私的企業が自らの力でこの問題に取り組むことも次第に増えてはいますが、成否のほどはまちまちです。
アメリカのベルシステム社は幹部候補を対象に狭い専門化に対処する目的で「人文科学インスチチュート」を設立しました。[注8]
しかし、矛盾が全般的に解消されるわけではありません。現在の教育システムにおいてこの矛盾を解決することは原理的に不可能なのです。このまま狭い専門化の傾向を続けてゆくと上の写真のような新卒の専門家が登場することになるのが論理的な帰結なのです。すでに今日においても、1つの分野の専門家として認められるようになる年齢が次第に高齢化してゆく傾向が見られます。
例えば、ニールス・ボーアとアルバート・アインシュタインが世界で一級と見なされる専門家になったときにはまだ30歳になっていませんでした。
この矛盾は、もう1つ次の矛盾とも関係しています。この矛盾は歴史的に形成されてきた学問や学習法と密接に結びついたものです。
すでに触れましたが、教育の基本的な目的の1つは文化の継承です。ところが文化というものはある総合性を持っていて、何らかの条件をつけなければ分割することはできません。例えば言語や宗教の特性は技術や芸術の発展の中に何らかの形で必ず反映されてしまいます。ある意味では、芸術家であるレオナルド・ダ・ヴィンチが遠く離れたところを絵で表現する方法を発見したこと[注9]と、技術者であるシャルル・テリエが食品を冷蔵庫で保管する方法を発明したこととは、人類の文化という面から見ると同じ意味を持った出来事ともいえるのです。
「物理学者」と「作詞家」とを区分することは基本的に間違ったことなのです。レオナルド・ダ・ヴィンチは極めて優れた技術者であり築城家でした。彼は、潜水艇やヘリコプターのアイデアを考案しています。アインシュタインはヴァイオリンを演奏しましたし心理学にも関心をもっていました[注10]。こうした人たちは天才なのだから例外だという人が出てくることでしょう。その通りです。しかし逆に次のことが言えます。彼らが天才であった理由の1つは自分を狭い専門分野の枠組みに閉じ込めなかったことにあるのです。
注9 線遠近法を始めて生み出したのはフィリッポ・ブルネレスク (1377-1446) ですが、レオナルド・ダ・ヴィンチは遠くの物体の輪郭をぼかすことでこの方法を改良しました。
注10 『何故戦争か』(1933) というフロイドとの共著さえあります。
今日の細かい教科毎の教育は多くの弊害の原因です。私たち自身の中に「私はこれこれの分野の専門家である。他のことはわからないが専門家としての自分を誇りに思っている」というように自分を狭く限定する自意識が形成されてしまっています。こうした状況は、一人一人が自分の担当の仕事をやり、それ以外の全てについては他の人の言うことに耳を傾けてそれに従うことを求められた産業モデルの社会では妥当なことだったのです。
教育の総合性・全体性への要請は時を追うにしたがって緊急性を帯びてきています。しかし、今日の教育システムはその要請に応えることができません。学際的な連繋を促進しようとするいささかの試みは1つの前進ではあります。しかし、それも多くの場合は表面的であり、また、メンデレーエフがすでに一編の詩をのこしている程度の断片的出来事に終わってしまっています。
科目ごとに教育を行うやり方が時代遅れになってしまったのか、あるいは、まだ未開拓の可能性を残しているのかについては議論の余地があると思います。しかし、人がより高い教育を受けることの必要性が増していることは疑う余地がありません。しかも、単に増しているのではなく、ルイス・マンフォードのグラフに示されるように幾何級数的に急増しているように思われるのです。
そして、ここで次の矛盾が浮かび上がってくることになります。
人々は世界中を移動しています。大量な移住者、国際結婚、インターネット技術を通じた人々の交流……などなどによって、地理的な境界はすでに存在しません。言語の境界を克服することも時を追って容易になっています。
一方で教育を受けた人々とそうでない人々の間には画然とした相違が存在します。未来に向けた備えを持っている人々と、過去を志向する人々との相違です。この傾向には社会的な危険性が含まれています。この相違が人々を2つに分断してしまうことです。
疑うことの出来ない事実がひとつあります。いつの時代にも成功する人と成功できない人とがいるということです。しかし、人の運命が教育によって左右される度合いが急速に大きくなっているのは今日という新しい時代に初めて起きていることです。私見ですが、個々の人の運命が教育によって左右される比重がスタート時点での可能性、出生、資産の有無などよりも大きくなったのは歴史的にはごく短期間に生じた変化だと思います。
アメリカが希望とより良き未来への期待に満ちて21世紀を迎えたまさに今、最も将来を期待されるべき児童のあまりにも多くが極端に教育の遅れた状態におかれています。全国的なテストのデータによれば、今日、我が国の都市中心部に住む4年生のほぼ70%が基本的な読書能力を身につけていないのです。私たちはまさしく社会的危機と直面しているのです。私たちは時とともに次第に1つの民族から2つの相異なる民族へと分裂しつつあるのです。一方の民族は読むことができ、もう一方は読むことができません。一方の民族は将来への期待を夢みることが許され、他方にはそれが許されません。[注11]
注11 アメリカのブッシュ大統領の2001年1月27日に行われた初めてのラジオによる演説からの短い抜粋。ロシアの『教育クーリエ』サイトの資料より。
ふたつの「民族」を隔てる深淵——教育を身につけているかいないか——は深刻な社会問題です。この問題を解決しようというあらゆる方策は新たな矛盾に直面することになります。この矛盾をどのようにして解決するのかについては、別の箇所で詳細に検討する必要がありますが、ここでは、そのうちの1つについて検討したいと思います。この問題は最も難しい問題と言うわけではありませんが、最もしばしば取り上げられる問題です。それはコストに関する矛盾です。
質の高い教育には多くのコストがかかります。教師に対する給与、質の高い教育設備・資料、常に内容を更新する必要性、その他様々な要因があります。
ロシアの皇帝アレクサンドル1世は宮廷のあったツァールスコエ・セローの高等学校の維持資金として、エカチェリナ2世の時代以降世界で最も豊かだと考えられていた皇帝一族の収入の5分の1を使っていました。イエズス会はおとぎ話のような富を持っていました。ラテンアメリカに持っていた金鉱山、銀鉱山だけをとっても莫大でした。そのイエズス会は「教育プログラム」に全収入の半分以上を投入していたのです。[注12]
注12 ロシア『知識は力』誌、1993年 No. 4。
良い教育にはコストがかかります。しかし、悪い教育はさらに高くつきます。悪い教育は破滅的な結果につながる可能性があるからです。技術者にせよ、軍人にせよ、政治家にせよ、そのような立場の人々が十分な能力を持っていないことが社会にもたらす危険性はますます大きくなっています。私たちが生きている現代はそういう時代なのです。
法律家は「法の不知はこれを許さず」という原則を作りました。私は次のように補足したいと思います。「化学の不知は河の汚染に対する責任を許さず、物理学の不知はチェルノブィリ事故の責任を許さず、生物学の不知はエコロジー上の災害に対する責任を許さず……」
経済や政治、人間社会につきものの法則性についての無理解を利用すれば、大衆の利害や社会の発展に逆行して人々を操作することも可能になります。
子供たちが自分の学ぶことを自分で選択すると学習ははかどります。しかし、この点についてはいくつも落とし穴があります。もし子供が何も選択しなかったらどうでしょうか。今日はこれがいいといって選び、明日は別のこと、翌日は、また別のことを選んでこれが終わらなかったらどうでしょうか。「門前の小僧習わぬ経を読む。」{子供は周りの環境の中から学びたいものを見つけます。}それなのに、大人たちがどのような教育環境を整えれば良いか判らないままでいたらどうなるでしょう。そうした環境で子供たちが必ず学びたいと思うものはなんでしょうか。こうした矛盾に満ちた状況がそのまま続いてゆくことでしょう。
香港、台湾など貧困から飛躍した国々は高い教育水準の達成に注力しましたが、ここであげた矛盾を解決できたわけではありません。義務教育の厳格な強制によって高度に知的な生産体制を作り生活の物質的水準を向上させることはできました。しかし、それは同時に精神面での問題を引き起こし、心理的弱さを生み出すことにもなりました。
民主主義の成熟した国々では別の偏向が生じました。教師たちは少しでも生徒に強制すると親たちが憤慨することをおそれています。ある男の教師は生徒たちと議論したあげくにミミズを食べることになり、別の女性の教師はパイ投げの的になることを賭けることまでしました。これらはなんとか生徒たちのやる気を引き出そうする必死の試みだったのです。アメリカでは多くの子供が卒業しないうちに全く学校に通わなくなってしまいます。これは国家にとっての大問題です。そのうちに教育水準が低下してしまいます。どうしたら良いのでしょうか。いくつかの試みは行われていますが、解決策はまだ見つかっていません。
ウエストヴァージニア州では数年前に州の法律によって修学を放棄した子供は運転免許が失効することと定めました。この法律は生徒が自動車以外の移動手段をもっている無しに関わらず適用されます。通学を拒否するならば、自動車、オートバイの運転は許されないのです。どうなったでしょうか。現在ウエストヴァージニア州の中学校の卒業者数は記録的な数字になっています。落第者の数が減少しただけでなく、この法律によって多くの子供がクラスに戻ったのです。[注13]
教育は複雑な矛盾、逆説、未解決の問題に満ちた分野です。こうした問題を解決するために秀才中の秀才が頭を悩ませています。
アルバート・アインシュタインはジャン・ピアジェ宛の手紙で子供の思考が形成されてゆくプロセスを研究することを選択した学者の大胆さに驚きを表明しています。子供の意識・無意識に関連する秘密と比較すれば自分が解決した物理学の問題などは児戯に等しいというのです。[注14]
教育はじっくりと検討することを求める対象です。教育システムの問題をその他の問題扱いで済ませている国は、その他の国扱いを受ける国として生きてゆくことになります。教育の逆説や矛盾は解決されなくてはならないのです。しかも、単に解決すればよいのではなく、上手に解決することが求められているのです。
注13 『プラウダ』1989年6月28日号。
注14 次のサイトの資料にもとづく: http://www.igumo.ru/psih.html
追記:
残念ながらロシアでは教育の改革というテーマについて真剣な公的議論が行われていません。全国統一テストや高等教育の2段階化についての論争は勘定に入りません。こうした議論は昨日の問題ですらなく、既に一昨日の問題になってしまっているのです。猛烈ビジネスパーソンの理想をなぞっているにすぎません。私が見た教育問題を扱ったTV番組の中で最も良かった番組は「ポスナーと」でロシア教育大臣他何人かの著名な人々が参加した議論ですが、その議論ですら、教育の問題がいかに矮小化され、いかに誤解されているかということを知らされてがっかりすることになりました。これを例えて言えば、宮殿の設計に関する問題について土木作業員が議論しているといった状態でした。問題を正しく設定することができれば、問題を半分解決したのも同じだといわれます。私たちが、単にそのふりをするだけでなく、本当に教育の問題を解決しようとするならば、厳密に、矛盾の形で問題提起を行うことが不可欠なのです。そうでなければ、自己欺瞞にすぎません。