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アナトーリー・ギン「紹介します:オープンタスク」

このページでは、TRIZマスターであり「新しい時代の教育」研究室長としてTRIZの考え方に基づいた教育法の開発・普及を進めているアナトーリー・ギンの文章を、本人の承諾を得て翻訳し、紹介します。

これまでの資料で度々触れられている「オープンタスク」はアナトーリーの教育論の最大の特徴といえます。ここに紹介する資料ではそのオープンタスクに焦点が当てられています。

この論文には著作権があります。
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紹介します:オープンタスク

(物理学者、詩人を始め知的な方々にお薦めします)

アナトーリー・ギン

世界は急速に変化しています。教育は急速にふるびています。

コンピュータを始めとする最先端の道具を教室に持ち込んでも事態を好転させることはできません。教育の中身を変える必要があるのです。しかし、どのように変えたら良いでしょうか。

ここでは、教育の中身の1つの側面として、答えを教える教育から、答えを自分で探すオープンタスクによる教育への移行という点について考えてみたいと思います。

2つの実例

学校での学力コンクールに勝った「頭でっかち」が30人集まって競うことになりました。課題が与えられ、時間が過ぎてゆきます。20分程経ったところで1人の男の子が落ち着かない様子でもぞもぞしているので近寄ってみます。「どうしたのかな。」「答えは出せると思うんですが。この数字をどうしたら良いか、どうしても判らないんです。」 問題の文章を読んでみましょう:[注1]

1785年にフランスの飛行船操縦士シャルルが秒速1メートルの早さで上昇中の飛行船から石を落としました。落としたときの高さが地上300メートルとした時、石はどれくらいの時間で地面まで届くでしょうか。空気の抵抗は無視してかまいません。

ウォームアップ問題ともいえるもので難しいわけではありません。ところが、男の子は「1785」という数字で袋小路に入りこんでしまったのです。問題の文章には解を得るために必要な条件がすべて書かれていて、逆に、余分な情報は何も含まれていないということに慣れすぎていたわけです。

今度は物理の先生が30人です。私は次の「ずるい」課題を使いました。

バスタブに水が入っています。水にレンガを1つ入れると水面の高さはどれくらい変化するでしょうか。

最初の反応は「どういうバスタブですか」「どんなレンガですか」といった困惑した質問です。「標準的な大きさを想定しておおよそのことを考えて下さい」と答えます。こうなると全員があっという間に自信を持って答えを出してしまいます。「レンガの体積分だけ水が押しのけられて……。何が課題なんですか。」

  • 「皆さん、よく考えましたか。」

とたたみかけます。

とたんに皆さんハッとします:

  • 「始めからバスタブが水で一杯になってたら? 水面の高さは変わらないよね。水がこぼれるだけのことだ。」
  • 「おっしゃる通り。それだけですか。」
  • 「違う、違う。」

みんな、一気に活気づきます。

  • 「水がほんの少ししかなかったら? 問題の条件では水の量について触れていないよね。レンガが沈むまでの水がなかったら、レンガの入った分しか水面は変化しないことになる。始めの水面の高さが判れば計算できるけれど。」

そこで、議論を整理します。

  • 「皆さんへの課題は、問題の条件として不十分な要素を検討して、必要な分を追加していただくことまで含まれていたわけです。皆さんは簡単な状況分析をして、その結果、条件として次の3つのケースを考えたことになります:
    1. 始めの水の量がレンガを沈める量より少ない場合
    2. 水の量がレンガを沈める量以上で、かつ、バスタブが満水になる量以下だった場合
    3. レンガが入るとバスタブから水がこぼれてしまう量が入っていた場合
    これが、オープンタスクです。皆さん見事に課題を解いてくれました。今度はオープンタスクに必要な条件をもう少し深く検討してみましょう。
    問題の文章は〈水にレンガを入れると……〉となっています。考えてみましょう、レンガを水に入れる入れ方によって答えは変わってくるでしょうか。」

また、会場が活気づきます:

  • 「スピードをつけてレンガを投げ込んだら、飛び散ってしまう水もあるよね。」
  • 「バスタブに穴が開くかもしれない。」
  • 「衝撃で水が加熱されて、一部蒸発することも考えられる。」
  • 「レンガについても、いろいろ考えられるよ。水より軽いレンガもあるし。」
  • 「どんなレンガがあるか、調べる必要がある。」
  • 「前もって加熱されたレンガだとどうなるかな。」
  • 「問題の条件では、それについても何も言っていないね。レンガの温度まで指定すればどれだけの水が蒸発して、その結果水面の高さがどうなるかまで計算できる。」

ここで、私が口をはさみます。

  • 「はい皆さん、十分だと思います。気に入っていただけたようですね。これまで考えてきたことを踏まえると、〈バスタブとレンガ〉を素材として従来のタイプの数値を含む唯一の正解を求める〈クローズトタスク〉の問題を幾つも作ることができますね。」

注1 問題の文章は著者の記憶によるものです。

学校でどんな課題に取り組んできましたか

答えは簡単です。先生が解き方を教えてくれた課題と取り組んできたのです。クローズトタスクの公式はこうなっています。

正確な条件+確立された解決法+唯一の正解
確立された解決法(つまりは、思考法)から右や左に一歩でも外れたら減点

図1
〈図1〉

心理学では思考に2つのタイプがあるとしています。1つは収束型(クローズトな、創造/空想的ではない)思考、他方は発散型(オープンな、創造/空想的な)思考です。収束的な思考が支配的な人は「理知/論理的」な性格、発散型の思考が支配的な人は「創造/空想的」な性格と名付けられています。理知的な人は非常に複雑な課題を解決することができますが、その課題はそれまでに誰かが発見した既知の解決策があるもの、つまりは〈クローズト〉な課題です。創造的な人は自分で気づいて課題を設定し、あらかじめ与えられた限定的な枠組みから抜けだそうとします。もちろん、人は誰でも理知的な能力も、創造的な能力も備え持っていますが、人によってそれぞれの程度が異なります。年齢が進むにつれて創造的な思考は「減衰」してゆきます。高学年の生徒や大学の学生は大多数は大勢に順応するようになり、独立をおそれ、独自の考え方には惹かれず、噛み砕かれ、消化され尽くし、きちんと「棚に並べられた」情報のみに注目するようになります。かれらは、条件が定まらず、解決策が選択肢としてしか得られない問題に出会うと尻込みします。こうなるのは当然なのです。

鳥かごに入れた鳥に飛び方を教えることはできません。解決策に到達するアプローチがたくさんあること、問題の核心を掘り下げる水準が複数考えられること、解決策にバリエーションがあること、こうしたことを許容する〈オープン〉なタスクの空間に飛び立たなくては〈創造性〉の筋力を鍛えることはできないのです。

身の回りの課題

人間の活動分野のどのようなところにもオープンタスクはあります。技術、科学、日常、芸術、人間関係などなどです。例を挙げましょう。

ネコとむくどり(日常)

木の上に取り付けた巣箱でヒナのサエズリが始まったと思ったら、ネコがやってきて舌なめずりして獲物を狙っています。巣箱を作った男の子はヒナを助けたいと思って、ネコがどうしても巣箱にいけないようにするアイデアをみつけました。どんなアイデアがあるでしょうか。[注2]

メカジキの能力 (科学)

どうして、魚やイルカはぎっしりと詰まった水の中を、鳥が空中を飛ぶよりも早い程の速度で泳ぐことができるのでしょうか。例えば、ある資料によればメカジキの泳ぐ早さは最大130Km/時にまで達するといいます。メカジキが水中でこれだけの速度を得るためには自動車のエンジンとしておよそ100馬力級の出力が必要となります。生物のエネルギーは酸化作用から生み出されています。魚は変温動物ですから体温は海の水温より少し高い程度です。しかも魚の体内の酸素の量はほんの少量でしかありません。この条件で100馬力などという出力は得られるはずがありません。想定されるのは魚が何らかの手段で水の抵抗を小さくすることができるということです。それをどのようにしているのか、この疑問の答えはまだ見つかっていません。

名前の略奪(人間関係)

パプアニューギニアのボルダイ族の人々は子供が生まれると古来の伝統に従って血なまぐさいやり方で名前をつけていたといいます。両親は近隣の村に住む賢明、勤勉でみんなに尊敬されている人物を探し出して、その人を殺して名前を略奪するというのです。この風習は周囲の村人に憎まれていましたが、どうすることも出来ませんでした。ところがチーバという名前のボルダイの部族長は部族に伝わる危険な信仰を克服することに成功しました。何世代もの間誰もできなかったことをどうやって独力でなし遂げたのでしょうか。[注3]

バレエの舞台の遠近法(芸術)

ある時バレエの監督が舞台に登場した狩人たちの遠ざかってゆく姿が観客の目に実際に遠くへ動いていっているように見える演出をしたいと思いました。とはいえ、舞台はそれほど広いわけではありません。観客の目にダンサーの背丈が縮まって見えるはずもありません。どうしたらよいでしょうか。[注4]

クローズトタスクと出会うのは学校の中のことでしかありません。現実の生活にはクローズトタスクの居場所はほとんどなくなってしまいました。クローズトタスクの仕事は数値制御の工作機械やコンピュータなどの便利な装置が上手にやってくれます。

  • 不良っぽい連中との間にもめ事を起こさないような関係を築くにはどうしたらよいか
  • 男の子(女の子)と親しくなるにはどうしたらよいか
  • 卒業しても学習を続けるにはどうしたらよいか
  • ……

若い人たちがかかえるこうした問題もオープンタスクと考えることができます。こうした問題にうまく対処することのできない若者は自分自身や周囲の人々の気持ちや生活を暗いものにしてしまうかもしれません。

学校はクローズトな問題の解き方を教えています。ところが人生はオープンな問題を解決することを求めてきます。教師たちの努力と生徒たちの意欲とは学校の現実と人生が求めることとの間にあるこのすきまに落ち込んで失われてしまうのです。

注2 木の幹の回りにブリキの板を巻き付けました。G.イワノフ『創造性の方程式、あるいは発明の勉強法』モスクワ、啓蒙出版、1994、97-98ページより。

注3 この課題はウラジオストークの友人アナトーリー・リマレンコに提供してもらったものです。解答:チーバはビデオ映画やはがきに出てくる都市、彫像、肖像画、スポーツ選手、映画スターからとって名前をつけることを始めたのです。彼は自分がつける名前は今までの名前に劣らないものだと部族の人々を説得しました。長男に気に入ったカーボーイの名前をつけたいと思ったらビデオカセットや絵はがきを買ってきて槍で突きさせばよいのです。知恵者チーバのおかげで血なまぐさい風習はなくなり、人々はほっとすることになりました。

注4 この課題を作ったのはチェリャービンスク市のヴァレンチーナ・ベリョーズィナです。解答:「私はダンサーを背の高さによって6人ずつ6つのグループに分けました。初め森の中の道を歩くのは一番背の高い6人です。次は少し背の低い6人、3番目はさらに背の低いグループ、6番目の最も背の低いグループは森の奥深くの橋の上を歩きますがこの6人は子供が演じます。効果は抜群で観客には同じ6人が森の中を奥へ奥へと歩いているようにみえます。グラデーションは音楽にも使いました。徐々に音が小さくなって最後は消えてゆきます。また、ダンサーの衣装の色も空気遠近法をつかって少しずつ薄い色に変えるようにしました。」Zh.Zh.ノーヴェル『踊りについての書簡』1965、106-107ページ。

落ちこぼれと才能

落第寸前で学校のきまりを何ひとつ守れないコーリャは私には中々かしこい子のように思えました。いつものようにコーリャが担任の先生と一悶着を起こした後で「腹を割った」話をしてみました。コーリャの考えはこうです。「どうして先生が偉いのさ。大学で5年間も教科書の勉強したんでしょ。それに先生は答えを書いた本を持っていて、ぼくは持っていないんだもの。同じものを持っていれば僕だって先生と同じくらい頭よくなっちゃうね。」

後になってわかったことですが、これはコーリャのようなタイプの男の子の典型的な考え方です。こうした考えで学校に通わなくなる優秀な子供、落ちこぼれになる子供がどれほどいることでしょう。かしこくて、積極的で、活動的な子供がクラスでは単なる落ちこぼれになってしまうことがあるのです。生徒アインシュタイン、生徒メンデレーエフ、生徒ブローツキー、その他の偉大な頭脳が学校では落ちこぼれだったということはいろいろなところに書かれていますが、おなじ話だと思います。こうした生徒の自由でオープンな思考様式は〈学校工場〉の枠には収まりきれないということなのです。

学校の先生が一年生になったとたんに将来の天才を、この子は頭の悪い出来損ないだと宣言したものですから、母親は困って学校に出すのをやめてしまいました。トマス・エジソンの学校での勉強は、こうして、数ヶ月で終わりをつげ、あとは家で母親から教育を受けることになったのです。彼は本が好きで良く読み、他の子供たちと違っておもちゃは親にせがんだりしないで自分で作りました。10歳にもならないうちにミニチュアの機械式ノコギリや鉄道模型を作るまでになり、自分の発明作品リストを作り始めました。

サーシャは私が今度担当することになった8年Aクラスの生徒です[注5]。どうしようもない落ちこぼれのようです。テストの時間には問題を幾つか出して教科書を渡し「答えを見つけて書き写しなさい」と言うようにします。できません。教科書の答えのある箇所を見つけることさえできないのです。ところが、しばらくして驚かされました。サーシャは小型バイクのプロと見なされているのです。エンジンを分解して修理してしまいます。落ちこぼれにできることではありません。本当のことでしょうか。

真相を明らかにしようとしているうちに、サーシャと仲良しになりました。本当なんです。落ちこぼれに見える時には、全くやる気が出なかっただけなのです。学校は我慢して時間が過ぎるのを待つだけの場所、ところが本当の生活の場では彼は可能性一杯までがんばります[注6]。どうしてでしょうか。

私は、子供の自由な思考を「調教」し、型にはまって考えるように強制し続けると子供によっては「仮死して自分を守る」ようになってしまうのだと思います。それではどうすればよいというのだ、型にはめるといっても考える上でのルールを教えているだけだ、これで得られる答え、あるいはそこまでゆかなくても考えを整理するだけでも大いに役立つのではないか、という疑問がわいてくることと思います。もちろんです。家には屋根があるというのと同じで議論の余地はありません。しかし、屋根が頭にぶつかってまっすぐ立つことができなかったらどうでしょうか。背骨が曲がるまで、あるいは、屋根が壊れるまで待てというのでしょうか……

先生がテストに「気圧計だけを使って超高層ビルの高さを測るにはどうしますか?」という問題を出しました。解答を見ると多くの子供は高さを測るために気圧計をどう使ったらよいか正しく理解していました。一階と最上階とで気圧を測って、あとは計算で高さを出すわけです。ところがこれと違う回答をした生徒が1人いました。この子は真空のガラスのパイプに入れた水銀の高さは地上で76cmになることを知っていたので、水銀を使った気圧計の陰の長さを測り、次に超高層ビルの陰の長さを測って、あとは三角測量法を使って高層ビルの高さを計算すると言うのです。

先生は翌日その生徒を呼び出します。「昨日の答えが間違っているわけじゃないけど、先生は水銀式の気圧計じゃなくてアネロイド型気圧計を使って欲しかったんだ。アネロイド型気圧計を使って超高層ビルの高さを測るとしたらどうする?」
生徒は即座に答えます。「超高層ビルの屋上に上るでしょう。そこから気圧計を落とします。地上に落ちるまでの時間を計って、自由落下のときの加速度を使って計算します。」
先生「それも、間違っているわけじゃあないけど、違うんだよな。時計がなかったらどうする?」
生徒「そしたら、その建物を建てる監督をした人を探して、高さを教えてくれたら気圧計をあげるって言います。」[注7]

この子は創造的なタイプの典型です。考えてみて下さい。この子が独創的な答えを言うたびにバツをつけるような学校に入れられたらどういうことになるでしょうか。厳密に型にはまったことをしたときだけ褒めてあげることにしたらよいのでしょうか。これも基本的に同じことです。何年か経ってこの子はどうなるでしょうか。学校が好きになるでしょうか、勉強をいやがるようになるでしょうか、どうでしょう。この疑問は修辞的疑問に過ぎません。私たちはこうした子供がどうなるのかよく知っているのです。今日、多くの学校でこれが起きているのです。繰り返します。鳥かごに入れた鳥に飛び方を教えることはできません。

注5 1981年のできごとです。

注6 状況は少しずつ改善し、8年生を終えたときのサーシャの成績は5段階評価{数字が大きい方が好成績}の「4マイナス」でした。

注7 ジェラルド・I・ニーレンバーグ『創造的思考の技術』ミンスク、メドレー出版、1996、218-221ページ、より {Gerard I. Nierenberg, The Art of Creative Thinking, Sterling Publishing, 1996, 240p.}。

成功の要件

人生で成功する[注8]しないは何によるのでしょう。モスクワで法律の先生を対象としたセミナーを行った際、冒頭でこの質問を投げかけました。最も重要と思われる成功の要件を黒板に30程並べました。それから、歴史や身の回りの例を思い出しながら議論して、成功の要件に優先順位をつけてゆきました。

お金。最初にどれくらい資金を持っているかということでしょうか。しかし、よいアイデアや課題を克服する能力があれば、ほとんど何もないところから巨大な資本が作られた例はいくらでもあります。

スティーブ・ウォズニアックは報奨としてもらったXII-65コンピュータを500ドルで売り、一方スティーブ・ジョブズは、自分の口座にゲーム「ブロックくずし」でアタリから受け取った5000ドルがあることを知られたくなかったので、フォルクスワーゲンのトラックを売り払って[注9]2人で作った会社の利益の半額を得る権利を確保しました。コンピュータ市場の巨人アップルの設立資金はこうして作られたのです。

億万長者の海運王オナシス、金融王ロスチャイルド、石油産業の大立て者ロックフェラー、自動車の大量生産技術を初めて確立したフォード、こうした人々はいずれも工夫が得意、発明が上手でオープンタスクを解決する名人です。一方で歴史はこれとは逆に、それまでに蓄積したものをたった一度の誤った選択によって失った例も数多くみてきました。

学校や大学の教育はどうでしょうか。学校で際立った成績の子供が必ずしも人生で際立った人物にならないということは私たち全員が知っていることです。学問の世界に限っても、学校時代に学んだ知識の量は成功を約束する決定的な要素ではありません。

アサフ・ホールは一切の専門教育を受けずに天文学の世界に入った人物の1人です。他の学問分野から転身したわけでもなく、科学とは全く縁のない世界から天文学に入りました。かれは元々大工でした。教師だった妻から数学を学びはじめてほどなく、アメリカの天文台に職を得ることができました。その彼が1877年に火星の衛星フォボスとダイモスを発見し不朽の名声を残すことになりました。

サミュエル・モールスはアメリカで著名な画家でしたが、電気の分野では全くの部外者でした。しかし、42歳の時に電線を通じて情報を伝達するというアイデアに惹かれて、電報の発明者となり、またニューヨークのナショナルアカデミー・オブ・デザインの創立者の1人となり、初代の会長も勤めました。

それでは、成功の最大の要件は健康でしょうか。もちろん、大切な要件です。しかし、これについても例外は少なくありません。

この人がどれくらい困難な境遇から身を立てたのか知るには父親が彼にあてた手紙が参考になります。宛名は「中国、北京、北京たいかく、イスピラントのきょうしゅ、ワシリー・エロシェンコ様」となっています。農民の息子だった目の不自由なワシリーは様々な分野の高等教育を受け、北京大学だけでなく東京でもエスペラントを教えました。

エロシェンコの業績は膨大です。まず、日本ではエロさんの名前で知られる作家で日本語の中編短編作品集が3冊あります。作品は日本文学の古典とみなされ、子供たちにも広く読まれています。中国では作家・劇作家アイロシャニケ{愛羅先珂、爱罗先珂}として知られています。タイとビルマの民話の記録を世界で初めて残したのも彼の仕事です。彼が新聞に書いた記事は英語、ドイツ語、エスペラント語のものが残されています。トルクメニスタンでは今でも目の不自由な子供はエロシェンコが作った文字で学んでいます。彼はトルクメン語の点字を開発したのです。(チュクチ語も手がけましたが完成することができませんでした)

彼は外国語を教える独特の方法や、目の見えない人が独立して動き回るための方法も開発しました。彼自身、知らない街でも杖を使わずに動き回っていました。近寄ってみないと彼が盲目であることはわからなかったといわれています。[注10]

スティーヴン・ホーキングは科学界で極めて有名なイギリスの宇宙学者でケンブリッジ大学の教授も勤めました。子供の時にルー・ゲーリッグ病とよばれる筋肉が使えなくなる病を発症し、現在は片腕の2本の指しか動かせませんが、それを使ってコンピュータの画面で文字を選び合成した音声で聴衆と対話をしています。[注11]

大きな成功を収める上で絶対に無条件で欠かせない要件が1つだけあるようにみえます。それは、課題を解決する能力です。もちろん、職業・日常・心理その他にかかわるオープンタスクの意味での課題です。

創造的な人が他の人と違うところはなんでしょうか。かれらは身の回りの出来事で他の人が失敗とか天罰と思うところをオープンタスクとして受けとめます。必要なのは目を開いて見ることを学ぶだけです。すると目の前に世界が1つの無限のオープンタスクとして拡がっているのがみえます。物理学者でしたら、そこに自分の観点からサブタスクを見つけ、生物学者、教育者もそれぞれ自分のサブタスクを見いだします。必要なのは目の見えないエロシェンコがしたように見ることを学ぶことです。1つの例としてエロシェンコがみごとに解決した教育上の課題を紹介しましょう。

トルクメニスタンで学校(これも彼が作ったものです)の生徒を探している時にエロシェンコはドゥルドゥィという名前の目の不自由な孤児と出会いました。そもそもこの子がこの歳まで生きてこられたことが不思議でした。生きてきた6年間にこの子が経験してきたのは空腹と貧い者に対する迫害だけでした。ドゥルドゥィは、人は皆けだもので自分は世界の誰にも必要とされていない、と心底思い込んでいました。エロシェンコはドゥルドゥィを自分の学校に連れてゆき、食べ物と飲み物をあげました。教育学の原則ではこのような場合は数年間時間をかけて一歩一歩信頼関係を築き上げるように示唆しています。しかしエロシェンコは一日たりと待つことができませんでした。ドゥルドゥィを山登りにつれてゆきました。(余談ですが、エロシェンコは中々のアマチュア登山家だったのです。)2人で頂上に立った時エロシェンコはドゥルドゥィに自分の名前を大声で叫んでごらんと言いました。「僕は — ドゥルドゥィ!」と叫ぶと、こだまが名前を何度も繰り返します。「ほらごらん、こんな遠くの山の上だって、みんながお前のことを知っていて、お前が好きだって言っているよ。」

この ドゥルドゥィ・ピトゥクラーエフはエロシェンコの死後、トルクメニスタンにあるエロシェンコの学校の校長を永年勤めました。[注12]

出身をいえばギリシア人で国際的なビジネスマンのアリストテレス・オナシスとロシアの田舎を出自とするワシーリ・エロシェンコとの間にどんな共通点があるでしょうか。異なる意味で、異なる条件で、異なる時期ではありましたが2人は共に成功者だと言えます。1人はアメリカの港湾現場監督として、もう1人はロシアの片田舎の貧しい農民として終わることもあったかもしれません。しかし彼らは自分の課題を見いだし、課題をおそれずに解決してゆくことができたのです。かれらは呼吸するのと同じように、自分の課題を解決していったのです。結論は何でしょうか。課題をさらに掘り下げて下さい。

 注8 私たちは「成功」について次のように定義しています:
ある人が自分は成功者だと思い周囲の人々がそれに賛同している場合、言い換えれば、ある人が人生において自分や人々にとって意味のあることをなし遂げた場合その人は成功者である。

 注9 ジャック・ミンゴ『大企業成功の秘密』サンクト・ペテルブルグ、ピーチェルプレス、1995 より。{Jack Mingo, How the Cadillac got its fins, Harper Business, 1994.}

注10 イングリーダ・ムラシコーフスカ、ユーリー・ムラシコーフスキー『私は心に灯をともした』、1986-1987 より。

注11 『知は力』誌、1978、No.7 の記事より。

注12 イングリーダ・ムラシコーフスカ、ユーリー・ムラシコーフスキー『私は心に灯をともした』、1986-1987 より。

生き抜くための問題

簡単な課題というものがそもそもあったとしても、そうした課題は既に解決されてしまいました。私たちが解決しなくてはならない課題は難しい課題、大変難しい課題ばかりです。これは喜ぶべきことです。人間は生き抜いてゆくためにもっとかしこくならなくてはいけないのです。

様々な種類の全く新しい課題が次々に出現しています。例えば、近い将来には身体の中にマイクロコンピュータを埋め込んだ人々が出現することでしょう。もっと時間がたてば「なんだってあり」です。難しいことではありません。始めはハイテクの医学センサーが使われ始めます。例えば、患者にてんかんの発作がおきることを事前に警告する装置が使われます。本人には危険が迫っているという自覚はありませんが、装置がそれを警告し、親族や医師にも同じ情報を送ります。心臓病など、リスクの高い病をかかえた人に対しては、さらに進んだ対策が講じられます。単にセンサーを埋め込むだけでなく、必要な場合は薬品の投与、電気ショックなどの応急治療ができる装置になるかもしれません。ありうることでしょうか。それどころではないかしれません。人とコンピュータとを共生させた最初の例はすでに登場しているのです。

この動きは時とともにさらに先に進みます。身体の中にマイコンが1つ入っているならば、そこに例えば電話、金庫(ガレージ、マンションの部屋)を開ける秘密のコードなど、特に害のない機能を幾つか追加することにどんな問題があるでしょうか。さらに先に進みます……

こうした「余計なもの」はすべて高くつきすぎると考える人がいるかもしれませんが、次の例を思いおこしてください。

1950年代の始め半導体のトランジスタは約50ドルでした。これが10年後には約2ドルになりました。現在のチップに入っているトランジスタ一個相当のコストは10万分の1セントにもなりません。

人と技術が一体化されてゆくこうしたプロセスを止めることはもはやできません。いや、可能かもしれません。しかし、そうだとしてこのプロセスを止める必要があるでしょうか。信心深い私の友人は携帯電話は「魔物」だといっています。しかし、その彼もやはり携帯電話を使います。使わないわけにゆかないのです。これは1つの倫理的なオープンタスクです。こうしたプロセスにどのように対処すべきでしょうか。ところで、このようなプロセスに対して教会の代表者、反グローバリスト、共産主義者その他の「主義者」はどの様な姿勢でいるのでしょうか。このプロセスとの関係でどのような大問題が社会を待ち受けていることでしょうか。大問題の悪影響がそれほど深刻だったり、流血の事態につながったりしないようにするためにはどうしたらよいでしょうか。先ほどは倫理的なオープンタスクでしたが、今度は社会的なオープンタスクになりました。こうした課題を解決できるのはどんな人たちでしょうか。

イギリスの公益団体ウェルカム・トラストが行った調査によれば、イギリスの学校の卒業生は現代科学の進化によって提起されるようになった複雑な倫理的諸問題に対処できるように教育されていないことが明らかになりました。子宮内クローン人間、動物実験、遺伝子組み替え食品などの問題について生徒たちが冷静に考えることができるようにする手段はほとんど何ひとつ講じられていません。このため、子供たちはなんらの科学的事実に基づかずに自分の意見を固めてしまいます。教師は生徒が重要な出来事やニュース一般に興味をひかれないことを心配しています。又、生徒たちが動物の権利やクローン動物などの問題に対してまったく貧弱な事実を根拠として極めて硬直した主張を持ってしまっているとコメントしています。[注13]

私たちにとって比較的なじみの深い科学的課題や技術的課題も決して簡単になってゆくわけではありません。地球規模のエコロジー上の課題はこれからも常に、あるいは、人類が地球を去る時に至るまで、発生し続けることでしょう。そしてさらに特徴的なことは、人類が得るものが大きければそれだけ、失敗が高くつくようになってゆくことです。失敗とは船舶が沈没して原油が流れ出すこと、森林の破壊、民族間の衝突などです。こうした失敗を正すためには莫大なコストが発生します。時がたてばたつ程、オープンタスクを最善の形で解決することが人類が生き延びてゆく上での喫緊の問題である度合いも高くなってゆくのです。

注13 次のWebページより:
http://www.compulenta.ru/news/2001/7/16/15805/【リンク切れ】

現代の本質

人間と機械・装置との間の関係の本質にお気づきでしょうか。人間は機械や装置をつくり出します。すると、機械はこれまで人間が慣れ親しんできた活動分野で人にとって代わってゆきます。あるいは表現を変えれば、その活動分野から人間を追い出してゆきます。石の皮むきやナイフはそれまで指が使われていた皮を剥ぎきれいにするという活動分野から人間の指を追い出してしまいました。(私たちは通常これを解放したと表現していますが、事の本質が変わるわけではありません。)よいことでしょうか。もちろんです。指先は柔らかく敏感になってゆきましたから、もっと細かい作業に移ることができました。とはいえ、強い指先を持っていた何人かのピテカントロプスは仕事の内容が変わることに大きな不満を持ったかもしれません。

家畜と鋤や鍬のたぐいの簡単な仕組みとの組み合わせによって、土地を耕す基本的動力源としての人間は追い出されてしまいました。火と蒸気とが使われるようになったことによって相当程度まで人間の筋力が追い出されてしまいました。エンジンが一回転する毎に人の筋力の弱さと知恵の威力との対比が目に見えるようになりました。エンジンが機械に動力を伝えます。すると機械が紡ぎ、縫い、持ち上げ、揺り動かし、壊し、作ってゆきます。こうして、機械が人間の力を節約して、同時に、人間を従来の仕事から追い出してより高度な水準の活動、制御という活動水準、へと移行させたのです。機械は制御する必要がありました。制御は人間にふさわしい場所のように思われました。鉄の機械によって人間が制御の仕事から追い出されることはない……

と思われました。しかし、その想定は真理ではありませんでした。かしこい自動機械とコンピュータとが人間を制御からも追い出しはじめてしまったのです。今度はどこへいけというのでしょうか。ついに、私たちがすることは何も無くなってしまったのでしょうか。そうではありません。いや、まったくそうではないのです。

複雑な機械、飛行機が空を飛んでいます。飛行機の制御は自動機械=自動操縦装置がおこなっています。自動操縦装置は大変便利ですが、便利なのはあらかじめ想定されたとおりに飛んでいるときだけです。どんなことでも、想定外の事態が起きると人が操縦装置を手にします。想定外の事態ですから、条件を確定しておくことはできませんし、自動的に定められた枠に当てはめて状況を整理するわけにはゆきません。また、どのように対処すべきか予め決めておくこともできません。解答には可能性の要素が含まれます。つまり、想定外の事態とはオープンタスクなのです。現在、人間にふさわしい活動の場所は、まさにここ、オープンタスクが生じているところなのです。こことは、どこのことでしょう。あらゆるところです。技術、科学、社会、文化、芸術、子供の養育などなど……です。

私たちは現代の本質、現代という歴史的な時代の本質にまでたどり着きました。その現代が教育の分野にも押し寄せてきました。定められた規定の役割りを正確にはたすことを人に教える工業化時代の教育学は時代遅れになりました。古い教育学は小さな改良を導入し、あれこれの議論を展開し、問題の本質から目をそらしてしばらくは生き残ろうとすることでしょう。一方、明日の、情報化時代の教育学は未だ確立されていません。現在わかるのは、専門分野の境界を越えて、想定外の状況の中で、オープンタスクを解決しながら働けるように教えることが情報化時代の教育学の主たる目的だということだけです。どのようにして?

—— 了 ——

参考文献

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  3. Гин А. А. Картотека педагогических изобретений и задач. — Сайт ЛОТ «Универсальный решатель»: URL: http://trizway.com (2003).{A.A.ギン『教育上の発明と課題データ集』}
  4. Гин А. А. Нас ждут серьезные изменения в системе обучения. — Педагогика + ТРИЗ: Сборник статей для учителей, воспитателей и менеджеров образования. Выпуск 1. — Гомель: ИПП «Сож», 1996. — С. 6-11.{A.A.ギン 『教育体制の大きな改革は避けられない』}
  5. Гин А. А. Приемы педагогической техники: Свобода выбора. Открытость. Деятельность. Обратная связь. Идеальность: Пособие для учителей. — М.: Вита-Пресс. 1-изд., 1999, 4-изд., 2003. — 88 с.4. {A.A.ギン 『教育技術の定石集』}
  6. Гин А. А. Школа-фабрика умрет. Что дальше?: Образование на смене цивилизаций. — Педагогика + ТРИЗ: Сборник статей для учителей, воспитателей и менеджеров образования. Выпуск 6. — М.: Вита-Пресс, 2001. — С. 6-18.4. {A.A.ギン 『学校工場の死。次に来るべきもの』}
  7. Иванов Г. И. Формулы творчества, или Как научиться изобретать: Кн. Для учащихся ст. классов. — М.: Просвещение. — 1994. — С. 97-98.4. {G.I.イワノフ 『創造性の方程式』}
  8. Меркулов В. И. Гидродинамика знакомая и незнакомая. — М., 1989.7. {V.I.メルクーロフ『既知と未知の流体力学』}
  9. Минго Дж. Секреты успеха великих компаний (52 истории из бизнеса и торговли). — СПб.: Питер Пресс. — 1995.{ジャック・ミンゴ『大企業成功の秘密』}
  10. Мурашковская И., Мурашковский Ю. Я зажег в своем сердце огонь. — Сайт ЛОТ «Универсальный решатель»: URL: http://trizway.com (2003).{イングリーダ・ムラシコーフスカ、ユーリー・ムラシコーフスキー『私は心に灯をともした』}

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